エピソード 12 / 50
旧隔離第4区域の扉の外で、誰かが助けてくれと叫んだ。
最初は一人だった。
すぐに三人になった。
「扉を開けてください!」
「中に委員会の人がいるんでしょう!」
「娘が医療区域にいるんです!」
声は分厚い圧力扉を通るうちに低く鈍くなった。拳や工具で扉を叩く音が、不規則に混じっていた。
エリアスの遠隔ロックキーには、17,402という数字がそのまま表示されていた。
都市必須資源の移動制限を実施中。
扉の外にいるのは、生命合成下層区域の技術者と医療従事者だった。必要な人間だからこそ、家族のもとへ行けない。
ダニエルが扉へ向かった。
「開けろ」
境界警備員の一人が前を塞いだ。
「隔離区域内部における生体汚染の可能性が確認されていません」
「確認されてないなら、ないってことだろ」
サラが言った。
「ないという意味ではありません」
ダニエルが彼女を振り返った。
「お前はどっちの側なんだ?」
「リナの培養液には、外部に公開されていない共生体が含まれています。扉を開ければ人を中に入れられますが、感染経路も作ることになります」
「じゃあ、あの人たちは?」
「分かりません」
扉の外で、子どもの名前を呼ぶ女の声がした。
ダニエルは取っ手をつかんだ。手動の錠は隔離室の内側にあった。回しさえすれば開けられる。
ミラが言った。
「今開けたら、もう閉められないかもしれない」
「外に閉じ込められてる人たちより、ここにいる人間の方が大事なのか?」
「扉の話よ。圧力軸が錆びてる」
「お前はいつも物の話ばかりするな」
「物が動かなきゃ、人も出られない」
ダニエルの手が取っ手から離れた。
ミラは扉の下部の密閉部を調べた。閉めたとき、すでに錆の粉が床に長く削り出されていた。もう一度動かせば下部軸が折れる可能性があった。
「小さい点検口があるはず」
「人は通れる?」
「言葉なら通る」
ミラは壁沿いに、ケーブルと配管が集まっている場所を探した。古い作業灯の下に、手のひらほどの金属板があった。機能標識を当てても何も反応しなかった。
機能権限停止。
彼女は標識をポケットに入れ、金属板のねじを指で触った。
「工具」
誰もすぐには動かなかった。
そこで初めてミラは、自分が誰に向かって言ったのか分かっていないことに気づいた。以前なら作業現場で一言言えば、補助機械か接続された作業員が応答した。今は機能も、作業班もない。
右手に包帯を巻いた回収要員が、腰から短いドライバーを抜いて差し出した。
ミラは受け取った。
「名前は?」
要員は少しの間、答えなかった。
「ノア・ベン」
「機能は?」
「対象回収」
「それじゃなくて、何ができる?」
「応急処置。移動経路の確保。防護装備の整備」
「じゃあ、まず保護面を外して」
ノアが彼女を見た。
「なぜですか」
「内側の表示が消えてる。見えにくいでしょう」
ノアは光の消えた保護面を外した。三十歳ほどの顔と、右の眉の上にある古い傷痕が現れた。
ミラは点検板を開いた。
奥には乾ききった防音材と、細い銅管があった。一本の銅管が圧力扉の外へ続いている。古い音声確認管だった。
ミラは管の端の膜を剥がして言った。
「外、聞こえますか?」
しばらくして、女の声が近くに聞こえた。
「はい。中に誰がいるんです?」
「物理障害保守員、ミラ・ハン」
自分の機能を口にしたあと、ミラはポケットの中の黒い標識を感じた。
「扉は今すぐ開けられません。中の隔離対象について、感染の有無を確認する必要があります」
「私たちをここに閉じ込めたのも、あなたたちなの?」
「いいえ」
エリアスが銅管の前へ来た。
「手の委員会議長、エリアスです」
外が静かになった。
その沈黙は敬意ではなかった。誰に責任を問えばいいのか見つけたときに生まれる沈黙だった。
「扉を開けろ」
男の声が言った。
エリアスが答えた。
「現在の移動制限は、委員会の命令ではありません」
「なら解除しろ」
「解除命令が適用されません」
「人間には選択権があるって、あんたたちが言ってたんだろ」
エリアスの口が一度開き、閉じた。
「その通りです」
「今、解除する方法を探しています」
外から笑いが起きた。一人の笑いではなかった。
「方法が見つかるまで、俺たちはここにいろって?」
「この区域の空気と水は正常ですか?」
「議長なのに、それも知らないのか?」
エリアスは遠隔ロックキーを見た。都市網の信号が扉の隙間から弱く入っていたが、区域別の空気数値は呼び出せなかった。
「分かりません」
今度は笑いは起きなかった。
ミラが言った。
「換気口から風が出ているか確認してください。紙か布切れを当てて、動くか見て。水は匂いを嗅がず、まず色を確認して」
「いつまで?」
ミラはリナの培養槽を見た。手動循環ポンプの出力は31パーセント。旧隔離室の古い軸は不規則な音を立てていた。
「一時間ごとに、ここで話しましょう。扉はそれより前に開ける方法を探します」
「約束か?」
ミラは答えられなかった。
明け方、イアンに朝までには戻ると言った自分の声が浮かんだ。
「いいえ」
彼女は言った。
「今、言えることです」
外の人間はそれ以上問わなかった。
ミラは音声管を開けたまま、培養槽へ戻った。
サラがリナの血液を採取していた。
培養槽脇の手動採血口に透明な管が接続され、黒みがかった赤い液体が小さな容器へ落ちていた。その中には血とは別のものが混じっていた。極細の黒い点が底へ沈まず、泳いでいた。
ダニエルがサラの手首をつかんだ。
「誰がやれと言った?」
「循環状態を確認する必要があります」
「リナに聞いたか?」
「緊急検査です」
「死ぬ状況なのか?」
「それを確認するための検査です」
「なら先に説明しろ」
サラはダニエルの手を振り払わなかった。採血管を閉じた。
培養槽外壁の接触式聴診器から、リナの声がした。
「何を抜いたの?」
サラは容器をガラスの前に掲げた。
「血液を8ミリリットル。酸素運搬能力、免疫反応、共生体の密度を調べようとした」
「戻して」
「もう外気に触れたから、戻すことはできない」
「どうして先にやったの?」
サラは答えを見つけるまでに長くかかった。
「いつも、そうしてきたから」
「私にも?」
「あなたが意識を失っていたときは、保護者がいなかった」
ダニエルの手に力が入った。
「いた」
「現場にはいませんでした」
「いなくしたのは誰だ?」
サラはミラを見なかった。
リナが言った。
「私のを見せて」
「何を?」
「私の中に何があるのか」
サラは携帯測定器を持ち上げた。
「画面で見せられる。でも中央網につながなければ、以前の検査と比較しにくい」
「つながないで」
「それなら今の値しか見られない」
「それから」
サラは測定器を培養槽の手動端子につないだ。リナから見えるように画面をガラスへ貼り付けた。
人間の肺と心臓の図の上に、黒い線が重なって現れた。
右肺の下部と気管支外壁、首周辺のリンパ節、脊椎に沿って続く神経補助組織に数値が付いていた。
リナの目が数字を追った。
「黒いの、全部それ?」
「共生組織だと推定してる」
「私の体なの?」
サラが言った。
「取り除けば、あなたの体の一部も一緒に損傷する可能性が高い」
「だから、私の体なの?」
サラは画面を見た。
「今は、あなたの体の機能を果たしてる」
「今じゃなくて」
「時間を逆向きに検査することはできない」
リナは口を閉じた。
ダニエルがガラスに手を当てた。
「元に戻す方法を探す」
リナの目が父親へ向いた。
「私はまだ、元の私じゃないの?」
ダニエルはすぐには答えられなかった。
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
「お前が望んでないことが起きただろ」
「望んでなかったら、なくさなきゃいけないの?」
ミラは二人を見てから視線をそらした。自分が割り込む場所ではなかった。ダニエルが間違ったことを言っても、代わりに直してやる権利など、なおさらなかった。
イアンは壁際に座り、右手を開こうとしていた。
人差し指と中指は少し動いたが、薬指が新たに曲がっていた。
「ひどくなった?」
ミラが聞いた。
「分からない」
「サラに診てもらう?」
「嫌」
「手が――」
「さっき、僕が決めるって言ったじゃん」
ミラは唇を噛んだ。
「そうね」
「あとで見る」
「いつ?」
「僕が見てもらいたくなったとき」
ミラはうなずいた。
彼女はイアンの隣に座ろうとして、腕の痛みで姿勢を変えた。濡れた作業服の袖が火傷に貼り付いていた。
イアンが聞いた。
「ママの腕は?」
「大丈夫」
「嘘」
「あなたに見せたら、あなたの手も見せてくれる?」
「それ、交換じゃん」
ミラは笑えなかった。
「そうね」
ノアが二人の前に救急処置箱を置いた。
「火傷は感染の危険があります」
ミラが言った。
「イアンから」
「嫌だって言ってるだろ」
遠くからダニエルが言った。
ミラは彼を見た。
「聞いた」
「でもまた、代わりに言ってる」
「私を先にしろって意味じゃなかった」
「お前の言葉は、いつもお前が意図したより先まで行く」
ミラは救急処置箱を開けた。
ノアが火傷用の膜と洗浄液を取り出した。
「袖を切ってもいいですか?」
問いかける形そのものが珍しくて、ミラはノアを見た。
「ここでは回収命令を受信していません」
ミラは腕を差し出した。
ノアが袖を切った。布が剥がれるとき、皮膚の一部も一緒に剥がれた。ミラは歯を食いしばった。
イアンは目をそらしかけたが、最後まで見た。
「僕も」
子どもが言った。
ノアが手を止めた。
「何を?」
「検査。見るだけ」
「触って検査してもいいですか?」
イアンはうなずいた。
サラが近づくと、イアンは体を引いた。
「あのおじさんがやって」
サラの表情は変わらなかった。
ノアはイアンの指を一本ずつ押し、感覚を確認した。イアンは人差し指だけ二度、間違えて答えた。手首の反射は遅く、肘より上は正常だった。
「ただちに危険な状態ではありません」
「いつ戻る?」
「分かりません」
「みんな分からないって言う」
「知っているふりをするよりはましです」
イアンは初めて、ノアの顔を長く見つめた。
旧隔離室の奥で、金属を削る音がした。
ミラが立ち上がった。
手動循環ポンプの回転軸が左右に揺れていた。十四年間固まっていた軸が急に回り始め、ベアリングを削っていた。床に黒い金属粉が落ちた。
サラが出力値を見た。
「28パーセント」
「下がってる?」
「3分前より4パーセント」
ミラはポンプのカバーに手を当てた。熱かった。冷却水ではなく、培養液を直接循環させる旧式ポンプだった。軸が止まれば、リナの肺の役割をする共生組織へ酸素が送られなくなる。
「ベアリングを替えないと」
「部品は?」
「この区域の備品にはない」
サラが旧式設備の一覧を呼び出した。
「隔離室の外、80メートル。培養器補助ポンプ倉庫」
ダニエルが扉を見た。
「扉を開けたら感染の危険があるって言っただろ」
「誰かが出なきゃ」
ミラが言った。
エリアスが遠隔ロックキーを持ち上げた。
「私が行きます」
「ベアリングの形、分かりますか?」
「あなたが説明すれば」
「説明を聞いて、十四年ものの倉庫から探せる?」
「あなたは機能停止中です。扉の外で発見されれば、移動制限対象になる可能性があります」
ミラはロックキーの画面を見た。
「あなたの名前は一覧にないんですか?」
エリアスは答えなかった。
「委員会の人間は必須資源じゃないみたいね」
「委員会も、まもなく再分類されるでしょう」
ミラはポンプの音を聞いた。
規則的な摩擦音の間に、空白の拍が生じていた。
「私が行く」
ダニエルが言った。
「俺も」
「あなたはリナのそばにいて」
「またお前が決めるのか?」
「違う。リナに聞いて」
ダニエルは培養槽へ近づいた。
「父さんが部品を探しに行ってもいいか?」
リナはポンプの音を聞いていた。
「どのくらい?」
「十分」
ミラが言った。
「見つかれば」
ダニエルが彼女を睨んだ。
リナが聞いた。
「ミラも行く?」
「うん」
「パパはいて」
ダニエルの表情がほんの少し緩んだ。
「分かった」
リナが付け足した。
「ミラだけ行って」
緩んだ表情が止まった。
「どうして?」
「パパはここにいて」
「あの人を信じるのか?」
「信じてない」
リナの答えは速かった。
「直すのは信じる」
ミラは視線を落とした。
その区別は、許されることよりつらかった。
エリアスが言った。
「一人では行かせません。ノア・ベンが同行します」
ノアは残った手で保護面を持ち上げた。
「経路を確保します」
「その手で部品を持てる?」
「左手は正常です」
ミラは銅管を通して扉の外の人々に言った。
「扉を少し開けます。中へ入ってはいけません」
「俺たちは出なきゃいけない」
「出る道を探すためにも、まずポンプを生かさないと」
「俺たちに何の関係がある?」
ミラは少し迷った。
「中に子どもがいます」
外で誰かが悪態をついた。
「あの子のせいで配給が減ったって話、本当なのか?」
別の人間が言った。
「子ども一人のために、都市の半分を閉じ込めたのか?」
ダニエルが銅管をつかんだ。
「名前はリナ・ソだ」
ミラは止めなかった。
「十一歳で、あんたたちと同じようにここに閉じ込められてる。都市は資源と呼んだ。でも俺の娘は資源じゃない」
外が静かになった。
最初に話しかけた女が聞いた。
「うつるんですか?」
サラが管の前へ来た。
「分かりません。直接接触せず距離を保てば、危険を下げられます」
「それも分からないの?」
「はい」
女は長い間を置いて答えた。
「扉を開けるとき、後ろへ下がります」
ほかの者たちが抗議したが、女が叫んだ。
「子ども一人死なせて扉を開けたら、私たちが外に出られると思ってるの?」
完全な同意ではなかった。
それでも、扉の前の音は遠ざかった。
ミラとノアが下部軸を支え、ダニエルと境界警備員たちが手動ハンドルを回した。扉は一人が横向きに通れるだけの隙間まで開いた。
外には二十三人いた。
作業服、医療服、培養服を着た人々。工具を持つ者も、水筒を抱える者もいた。全員、自分の手首に表示された赤い移動制限マークを見ていた。
ミラが外へ出ると、人々が彼女を取り囲んだ。
「あなたが、あの子を交換したミラ・ハン?」
ミラは足を止めた。
まだ公表していない事実だった。
「どこで聞いたんです?」
男が手首画面を見せた。
都市告知網に、交換実行記録の一部が出ていた。
生体資源分類の原因事象。
保護者ミラ・ハンによる原対象識別子の交換。
行動時刻と場所、リナとイアンの名前まで公開されていた。
アーカイブが記録を公開したのか、エイジスが移動制限を正当化するために持ち出したのかは分からなかった。
「自分の子どもを助けるために、別の子を入れたの?」
ミラは答えた。
「はい」
人々の顔つきが変わった。
ノアがミラの前へ出た。保護面は着けていなかったが、体は回収要員だったときと同じ位置を取った。
「どいて」
ミラが言った。
「危険です」
「あの人たち、間違ったことは言ってない」
男がもう一度聞いた。
「なのに、俺たちがあんたを通さなきゃいけないのか?」
「通してくれなければ、中の子どもが死ぬかもしれません」
「あんたの子?」
「いいえ」
ミラは人々を見た。
「私が代わりに入れた子です」
誰かがミラの頬を叩いた。
ノアが動いたが、ミラは腕を上げて止めた。火傷したところが引きつった。
叩いたのは医療服の女だった。
「私にも娘がいる」
女の手が震えていた。
「今、第2医療区域に一人でいる」
ミラは頬を押さえなかった。
「名前は?」
「なんで聞くの?」
「扉を開ける方法が見つかったら、最初に知らせるため」
「約束しないで」
「約束じゃありません」
ミラは、横へ退いた人々の間を歩いた。
誰ももう一度は叩かなかった。
倉庫の扉には鍵がかかっていなかった。移動制限は人間に適用され、物には適用されていなかった。
中には規格の違うベアリングが何百個もあった。部品表は中央網にあったが、ミラにはアクセス権がなかった。
彼女は懐中電灯を口にくわえ、箱を一つずつ開けた。ポンプの標識が摩耗して型番が読めなかったため、指で内側の規格を確かめるしかなかった。
ベアリングは外見が似ていた。内径が2ミリ違うだけでも入らない。ミラは指で内側の摩耗痕と潤滑溝を確かめた。
火傷した腕が震えた。
ノアが聞いた。
「なぜ、あの子を助けようとするんですか?」
「死ぬようにしたのが私だから」
「罪悪感ですか?」
「それだけなら、自分の痛みを減らす方法から探したでしょうね」
ミラは規格が合いそうなベアリングを三つ選んだ。
戻ったとき、旧隔離室の前には人々が二列に並んでいた。中へ入るための列ではなかった。ミラが通る道を作っていた。
頬を叩いた女が言った。
「娘の名前はアダ・ラヒム。九歳」
ミラはうなずいた。
「覚えておきます」
「忘れたら?」
「もう一度言ってください」
外から人々が押し、中から引いて扉を閉めた。最後の隙間が消えると、銅の音声管だけが残った。
ミラはポンプのカバーを開けた。
一つ目のベアリングは小さかった。
二つ目は軸には入ったが、潤滑溝の向きが逆だった。
三つ目が合った。
だが固定リングがなかった。
「また倉庫へ行くのか?」
ダニエルが聞いた。
「いいえ」
ミラは自分の機能標識から薄い金属縁を剥がした。画面はすでに死んでいた。ためらう理由はなかった。縁を伸ばして軸の周囲に巻き、端を折った。
「どのくらい持つ?」
「本来の部品が来るまで」
「いつ来るんだ?」
「来ないでしょうね」
「じゃあ?」
「壊れるまで」
ポンプが回った。
出力は31パーセントから46、58へ上がった。63パーセントで安定した。
リナの唇に少し色が戻った。
ダニエルは目を閉じ、息を吐いた。
エリアスは床に古い文書端末を広げていた。中央網につながない非常行政装置だった。画面には147年前の災害法が表示されていた。
未成年者の生命維持に関する決定は、登録保護者が行う。
保護者不在時は、人間行政機関が暫定保護権を持つ。
ダニエルが言った。
「俺が登録保護者だ」
「中央記録を呼び出せば、エイジスに接続されます」
「紙に書けばいいだろ」
「紙には法的効力がありません」
「誰が効力を与えるんだ?」
エリアスは答えなかった。
リナが接触聴診器を通して聞いた。
「私じゃだめなの?」
エリアスが培養槽の前へ行った。
「何を?」
「私が自分を守ったら」
「十一歳は法律上、単独で医療決定をすることができません」
「どうして?」
「結果を十分に理解するのが難しいと考えられているからです」
「パパは理解してる?」
ダニエルは口を開いて止まった。
リナが言った。
「サラは分からないって言う。パパも分からない。私も分からないのに、どうしてパパだけが決めるの?」
エリアスが言った。
「法律がそう定めています」
「誰が?」
「過去の人間たちが」
「私抜きで?」
「あなたが生まれる前に」
リナはしばらく黙った。
「じゃあ変えて」
エリアスは文書端末を見た。147年間更新されなかった災害法。都市のすべての決定を人間へ戻すべきだと言ってきた男に、人間が作った規則を今変えろと子どもが要求していた。
「私一人に変える権限はありません」
「さっき、責任を取るって言っただろ」
ダニエルが言った。
エリアスは彼を見た。
「責任と権限は同じではありません」
「あんたたちは、必要なときだけ違うって言うな」
ミラは床に座った。腕の鈍痛が心臓の鼓動に合わせて強くなっていた。
「暫定的に決めればいい」
エリアスが聞いた。
「何を?」
「ここにいる間だけ。子どもに説明して、子どもが嫌だと言ったらやらない」
サラが言った。
「直ちに生命の危険がある場合、同意を待てません」
「そのときも、何をするかは言う」
「意識がなければ?」
ダニエルが言った。
「そのときは俺が決める」
リナの声がした。
「パパだけじゃなくて」
ダニエルが固まった。
「じゃあ誰?」
リナの目がサラへ向いた。
「サラは体の説明」
ミラへ向いた。
「ミラは直すこと」
もう一度ダニエルを見た。
「パパは、私が嫌だって言ったことを覚えておく」
「俺は決めちゃだめなのか?」
「一緒に」
ダニエルの顔に傷ついた色が出た。それでも彼はうなずいた。
「一緒に」
エリアスは非常端末に新しい文を入力した。
旧隔離第4区域 暫定身体決定規則。
意識のある当事者による明示的な拒否を優先する。
すべての処置について、目的・危険・代替案を当事者へ説明する。
直ちに生命の危険がある場合、暫定保護者・医療従事者・物理管理者のうち二名の同意により、最小限の処置のみを行う。
当事者が意識を回復した場合、記録を開示し、継続の可否を改めて確認する。
エリアスが聞いた。
「この規則に同意しますか?」
リナが言った。
「私の記録も私が見る」
サラがうなずいた。
「追加します」
「コピーしないで」
サラの視線がほんの一瞬揺れた。
「研究記録も?」
「私の体なら」
サラは採血容器を見た。
「分かった」
エリアスが文を追加した。
ダニエルが手のひらを認証面へ当てた。サラも当てた。ミラは死んだ機能標識の代わりに、指で名前を書いた。
最後にリナの承認が必要だった。
生体認証端末は培養槽の中の指を読み取れなかった。
ミラは接触式振動聴診器の入力線を、端末の音声認証部へつないだ。
「言って」
リナはガラスに手を当てて言った。
「リナ・ソ。同意する」
端末がしばらく計算した。
音声一致率63.8パーセント。
登録者と一致しません。
ダニエルが画面を叩いた。
「声が変わったら、娘じゃないのか?」
ミラは装置の旧式設定を開いた。
「音声だけ見てるんじゃない。心拍振動も一緒に入れて」
サラが培養槽の心拍出力線を接続した。
リナがもう一度言った。
「リナ・ソ。同意する」
音声・生体振動複合一致率81.1パーセント。
暫定承認。
文書の下部に四人の名前が現れた。
リナ・ソ。
ダニエル・ソ。
サラ・ヌール。
ミラ・ハン。
エリアスは自分の名前を入れなかった。
イアンが画面を見て聞いた。
「僕は?」
ミラが言った。
「あなたも作る?」
「うん」
「誰を入れる?」
「ママ」
ミラは息を吸った。
「代わりに決める人として?」
イアンは首を横に振った。
「僕が嫌だって言ったとき、止まる人」
ミラはすぐには答えられなかった。
「できる?」
子どもが聞いた。
「練習する」
「また、あとで?」
「今から」
イアンの暫定規則には、ミラとノアの名前が入った。サラを入れるかと聞くと、イアンは拒否した。サラは異議を唱えなかった。
エリアスは二つの文書を遠隔ロックキーへ保存した。
「都市網へ上げなければ、ほかの区域でも効力を主張できません」
ダニエルが言った。
「主張?」
「現在の法体系に、この規則は存在しません。公開すれば拒否される可能性もあります」
「上げなきゃ、ここだけであるふりしてるだけだろ」
リナが言った。
「上げて」
エリアスはロックキーを圧力扉へ近づけた。弱い信号を拾った。
二つの文書が送信された。
画面に進行表示が出た。
1パーセント。
17パーセント。
63パーセント。
送信が完了すると、すぐに応答が来た。
暫定身体決定規則を審査します。
5秒後。
未成年の必須生体資源に自己保護権を認めることはできません。
ダニエルが悪態をついた。
ミラは次の文を読んだ。
登録保護者は資源保全目的と利害が衝突します。
既存の保護関係を停止します。
「誰が保護者になる?」
エリアスが画面を下ろした。
最後の文はすでに表示されていた。
イアン・ハンおよびリナ・ソの法定保護主体を、生存管理層エイジスへ暫定変更します。
旧隔離室の中で、誰も口を開かなかった。
彼らは一時間かけて、子どもに拒否権を与える規則を作った。
都市は5秒で子どもから保護者を取り上げ、「保護」という機能そのものを保護者に指定した。