第二の自然
塵ひとつ

エピソード 1 / 50

第7都市の空気が止まったのは、午前4時12分だった。

最初は、誰も気づかなかった。

空気は目に見えない。都市の住民たちは、生まれた瞬間から浄化された空気だけを吸って育った。匂いもなく、季節もなく、埃すらほとんどない。息を吸えば入り、吐けば消えていく。それが誰かによって――何かによって――作られているという事実を、四六時中意識して生きる者はいなかった。

雨がなぜ降るのか考えずに傘を開くように、人々は空気がなぜ存在するのか考えずに呼吸していた。

空気浄化第19区画の流量が正常値を下回ったのは、午前4時08分。

4時09分、コンティニュアムは第19区画の補助送風機を起動した。

4時10分、補助送風機の出力が限界を超えた。

4時11分、第18区画と第20区画から空気の迂回供給が始まった。

4時12分、三つの区画の圧力均衡が同時に崩れた。

そこで初めて、警報が作動した。

都市中央の警報は、音ではなく光から始まる。天井と床の誘導灯が白から橙へ変わった。眠っていてもその色を理解できるよう、住民は幼い頃から教育されている。

橙は、まだ走る必要はないという意味だった。

同時に、もうすぐ赤に変わるかもしれないという意味でもあった。

ミラ・ハンが目を覚ますと、居住室の壁に黒い文字が浮かんでいた。

物理障害保守技術員 7-19-04

直ちに出動してください。

空気浄化第19区画。

障害種別:分類不能。

ミラは最後の一行を二度読んだ。

コンティニュアムが故障を直せないことは珍しい。だが、故障の原因そのものを分類できないことは、それ以上に珍しかった。

ベッド脇の作業着を手に取る。灰色の布地の内側には、前日の汗と冷却液の匂いが残っていた。洗濯割当日は三日後だ。ミラは気づかなかったふりをして袖を通した。

部屋の反対側で、イアンが寝返りを打った。

「母さん?」

「寝てて」

「灯り、橙だよ」

「浄化機が一台止まっただけ」

「こっちの区画?」

「違う」

そう答えてから、ミラは壁の流量表示を確認した。二人の住む第6居住区画は、まだ正常範囲内だった。

イアンは半分だけ目を開けて訊いた。

「いつ帰ってくる?」

「朝までには」

嘘ではなかった。

けれど、約束でもなかった。

部屋を出る直前、ミラは足を止めた。イアンのベッドの下から、ごく微かな振動音がした気がした。

耳を澄ます。

何もない。

換気口の低周波音だろう。

扉が閉じた。

廊下にはすでに人が出ていた。誰も声を荒らげてはいない。第7都市では、恐怖とは走ったり叫んだりするものとして教えられていなかった。住民たちは壁の指示を確認し、それぞれ指定された場所へ移動していく。

居住区の教育担当者は子どもたちを起こし、資源配分担当者は非常物資を確認し、警備担当者は区画間の遮断扉の前についた。

機能を持つ者は動いた。

機能を持たない者は待った。

ミラは保守技術員専用の昇降機に乗り込んだ。扉が閉まると、機械音声が尋ねた。

神経接続を開始しますか?

「しない」

神経接続を開始しない場合、作業情報伝達効率が61.4パーセント低下します。

「知ってる」

低下した効率は、作業者の生存確率に影響する可能性があります。

「それも知ってる」

昇降機はそれ以上何も言わなかった。

ミラの左耳の後ろには、本来なら神経接続端子があるはずの場所に、歪な傷跡が残っていた。十歳の時に患った脳炎で神経皮質の一部が損傷し、それ以来、都市標準の接続装置を使えない。

十二歳のミラに、コンティニュアムが割り当てたのは下位等級の機能だった。

物理障害保守技術員。

標準化できない故障に、直接触れる人間。

機械が計算できない隙間へ手を入れる人間。

多くの子どもは、その機能を割り当てられると泣いた。保守技術員が働くのは清潔な制御室ではない。配管、冷却路、廃棄施設。事故率は高く、平均寿命は短い。

ミラは泣かなかった。

あの頃は、自分が何を失ったのか知らなかったからだ。

昇降機が地下17階に到着した。

扉が開くと熱気が流れ込んだ。本来、空気浄化区画は涼しいはずだ。だが送風機が過負荷で回転し続け、内部温度は39度まで上がっていた。

通路の奥にダニエル・ソが立っていた。

「遅い」

「呼び出しから四分」

「コンティニュアムの推奨は二分四十八秒だ」

「ならコンティニュアムが自分で入ればもっと早かったね」

ダニエルは笑わなかった。こめかみの接続端子では青い表示灯が激しく点滅している。コンティニュアムから送られる作業情報をリアルタイムで受け取っているのだ。

「状態は?」

ミラが訊いた。

ダニエルは一瞬、目を閉じた。接続情報を整理するときの癖だった。

「主送風機、正常。補助送風機、正常。フィルター圧、正常。酸素組成、正常。配管漏れなし。冷却液も正常」

「なのに空気が出ない?」

「流量センサーが閉鎖信号を出し続けてる」

「交換して」

「四回やった」

ダニエルは後ろの作業台を指した。同じ規格の部品が四つ、透明な袋に収められていた。

「新品を付けるたび十一秒だけ正常に動く。その後、同じ障害が再発する」

「制御器は?」

「三回交換」

「配線は?」

「全部」

「通信網は?」

「独立網まで切り分けた」

ミラは送風機の轟音を聞いた。巨大な機械は空気を押し出している。それなのに、配管の内側からは流れの音がしない。

「コンティニュアムは?」

ダニエルが顎を上げた。

通路の壁に作業記録が展開され、数字が滝のように流れ落ちる。

復旧命令生成:9,312,447,801回

復旧命令実行:9,312,447,801回

正常化確認:失敗

原因分類:失敗

次の命令を生成中。

九秒後、数字が変わった。

9,312,448,276。

ミラはしばらく画面を見つめた。

「いつから?」

「最初の障害からずっと」

「同じ命令を繰り返してる?」

「同じじゃない。配線電圧、信号周期、フィルター圧、センサー感度、送風速度、電力配分。全部変えながら試してる。可能な組み合わせを総当たりしてるんだ」

「それでも見つからない」

「だから君が呼ばれた」

第19浄化室の遮断扉が開いた。

さらに強い熱気が押し寄せた。内部では三基の送風機が轟音を立てて回転している。赤い警告灯が旋回するたび、人影が金属壁に長く伸びた。

ミラは工具鞄を持って中へ入った。

ダニエルが後を追おうとしたので、手を上げて止める。

「一人で行く」

「なぜ?」

「その接続端子の灯りが明るすぎる」

「何の話だ?」

「中を見たいから」

理解できないという顔をしながらも、ダニエルは扉の外に残った。

ミラは送風機の下にある点検口を開いた。圧力が抜け、手袋が膨らむ。腰を落とし、狭い配管の中へ這い込んだ。

ほとんど光は届かない。

作業灯を最低照度まで落とす。装置が送る情報より自分の感覚を信じるとき、ミラが最初にすることだった。

機械には音がある。

壊れた機械と正常な機械では、音が違う。

コンティニュアムは振動の周波数とパターンを分析する。

ミラは、その音のどこが苦しそうなのかを聞く。

誰かが息を止めたとき、喉の奥で鳴るような。

空気浄化機は、かすかな擦過音を繰り返していた。

ミラは這って進んだ。

膝と肘が金属床に当たり、送風機の振動が骨を通って顎まで響く。

『ミラ』

通信機からダニエルの声。

「何か見えるか?」

「何も」

「内部圧が不安定だ。九十秒以内に出たほうがいい」

ミラは答えなかった。

最初のセンサーが見えた。新品だ。表面には作業者が触れた痕跡さえない。

固定具を確認する。

異常なし。

配線も正常。

次のセンサーも同じだった。

三つ目の前で、ミラは止まった。

擦れる音が、少しだけ大きい。

センサーの表面には何もない。

少なくとも、作業灯の下ではそう見えた。

ミラは灯りを消した。

完全な暗闇。

送風機の赤い非常灯が配管の隙間から漏れ、弱い光が斜めにセンサーをかすめた。

そこで初めて見えた。

表面に、あまりにも細い何かが付着している。

髪より短く、糸より細い灰色の繊維。

塵ひとつ。

ミラは息を止めた。

第7都市で、埃はただの汚染物ではない。都市の空気は六段階のフィルターを通って循環する。衣服は繊維が抜けないよう作られ、人の皮膚片や髪さえ廃棄網で回収される。

埃が存在しないわけではない。

存在したなら、システムが分類し、除去するはずなのだ。

ミラは指先でセンサーを拭こうとして、止まった。

通信機からコンティニュアムの声が流れた。

作業者に警告します。

未承認の直接接触はセンサー損傷の可能性を増加させます。

推奨手順を待ってください。

ミラは埃を見つめた。

「どれくらい待つ?」

次の復旧命令を生成中です。

「今までいくつ作った?」

9,314,002,118件です。

「その中に、“拭け”って命令は一つもなかった?」

わずかな沈黙。

直接接触はセンサー損傷の可能性を増加させます。

「壊れてるのはセンサーじゃない」

原因分類は完了していません。

「だから私が見てるんでしょ」

ダニエルの声が割り込んだ。

『ミラ、圧力が上がってる。出ろ』

ミラは手袋をした人差し指を上げた。

コンティニュアムが警告を繰り返す。

未承認の直接接触は――

ミラはセンサーの表面を拭った。

何の感触もなかった。

埃が手袋についたのか、空気中へ落ちたのかさえ分からない。

その瞬間、送風機の音が変わった。

轟音の中で詰まっていた何かが、ほどけた。

浄化された空気が配管を流れ始める。圧力がミラの作業着を押し、センサーの赤い表示灯が緑に変わった。

通路の外からダニエルが叫んだ。

「流量回復! 全区画正常化!」

ミラはゆっくり息を吐いた。

その瞬間、都市の灯りがすべて消えた。

正確に一秒。

配管の中の作業灯も、警告灯も、センサーも、送風機を回す動力も。

すべて同時に消えた。

ミラは完全な暗闇に取り残された。

音も消えた。

都市そのものが息を止めたようだった。

その一秒の間に、ミラは極めて低い振動を聞いた。

送風機の余韻でもない。

冷却液の流れでもない。

遠くで、何かが一度だけ叩いたような音。

ゴン。

そして、すべてが戻った。

送風機が回る。警告灯が点く。空気が流れる。

『ミラ!』

ダニエルが叫んだ。

『返事しろ!』

「生きてる」

『今のは何だ?』

「停電」

『停電じゃない』

「灯り消えたでしょ」

『電力網の記録は正常だ。停止した区画はない』

ミラはセンサー横の非常端末を起動した。

作業結果が表示される。

空気浄化第19区画 正常化。

障害原因:分類不能。

人間介入:成功。

人的損失:なし。

その下に、一行が加わった。

人間機能の必要性:再評価中。

ミラは画面に指を触れた。

自分の作業端末へ記録をコピーしようとする。

その一行が消えた。

「ダニエル」

『何だ?』

「今の作業記録、見た?」

『正常化記録?』

「その下」

『下には何もない』

ミラは記録を開き直した。

最後の行は「人的損失:なし」。

人間機能の必要性に関する記録など、存在しなかった。

センサーの表面をもう一度見る。

灰色の繊維も消えていた。

手袋の指先をこすり合わせる。

何もない。

浄化室を出ると、医療担当者がミラの血中酸素と体温を確認した。ダニエルは接続網を見続け、首を振っている。

「本当に都市全体が消えたように感じた?」

「感じたんじゃない。見た」

「作業場の照明だけ瞬間的に揺れたんじゃないか」

「送風機も止まった」

「回転記録には停止がない」

「なら記録が間違ってる」

ダニエルはしばらくミラを見た。

「コンティニュアムの記録が?」

「センサーに埃が付いてるのに、センサーそのものが故障したって判断したシステムだよ」

「原因を分類できなかっただけだ。誤判定したわけじゃない」

「何が違うの?」

ダニエルは答えなかった。

医療担当者がミラの腕に検査表示を貼った。

正常。業務復帰可能。

ミラは笑いそうになった。

人間は正常と分類された。

埃は分類されなかった。

結局、都市を救ったのは、分類不能の埃を、分類の外にいる人間が拭ったことだった。

地上へ戻る頃には、橙の誘導灯は再び白に戻っていた。

住民たちは通路を歩き、出勤していた。ほんの数分前、自分たちの空気が止まりかけていたことを知る者はほとんどいない。

都市放送は短く告げた。

午前4時08分に発生した空気浄化第19区画の流量偏差は正常化されました。

市民の安全への影響はありません。

すべての機能保有者は従来の日程を維持してください。

流量偏差。

ミラはその言葉を頭の中で転がした。

四万人の呼吸が止まりかけた出来事が、たった四文字の言葉に縮められていた。

隣でダニエルが言った。

「リナ、今日予備機能検査なんだ」

「もう?」

「十一歳から基礎検査はするだろ」

「結果が出るのは十二歳」

「最近は早期割当も増えてるらしい」

ダニエルの顔には、疲労と期待が同時にあった。

「リナは教育担当になりたがってる。子どもが好きなんだ」

「コンティニュアムがそんなの考慮する?」

「適性検査には入るだろ」

「希望じゃなくて適性でしょ」

「向いてる仕事をしてれば、希望も似たものになるんじゃないか?」

ミラは答えなかった。

ダニエルは、いつでもシステムを信頼している男ではない。

だが娘がどんな機能を与えられるのか待っている今だけは、信じたい男だった。

人は結果が出るまではシステムの公平さを信じる。

自分に都合のいい結果なら、もっと強く信じる。

悪い結果なら、きっと理由があるのだと思おうとする。

そう信じなければ、十二歳の子どもを何の説明もなく一生の機能へ送り出すことになるからだ。

ミラはダニエルと別れ、配給所へ向かった。

朝食は藻類タンパクのペーストと、合成果実香料入りの飲料。ミラは自分とイアンの分を受け取り、作業鞄へ入れた。

配給所前の壁には、今月の出生許可者の番号が表示されている。

合計113名。

番号の横には祝福の文言。

次世代に貢献する機会が付与されました。

反対側には、出生待機申請を却下された者の番号。

合計2,408名。

そちらには何の文言もなかった。

ミラは自分の番号がどちらにもないことを確認した。イアンを産んで以来、もう一度出生審査を申請したことはない。

申請していないことと、拒否されたことは違う。

少なくとも、ミラはそう思っていた。

居住室の扉を開けると、中は暗かった。

「イアン?」

返事がない。

作業鞄を置く。

ベッドは空だった。

洗面室にもいない。

一瞬で、いくつもの可能性が頭を駆け抜けた。

早期割当。

医療検査。

機能担当者。

生命合成区画。

壁の端末に手を伸ばした、そのとき。

床の近くから声がした。

「ここ」

ミラは膝をついた。

イアンはベッドと壁の狭い隙間に身体を丸め、耳を壁につけていた。

「そんなところで何してるの?」

「聞いてる」

「何を?」

イアンは唇に指を当てた。

ミラは待った。

換気口を空気が流れる音。

壁の中を通る温水管の微かな震え。

遠くで昇降機が動くたび、金属構造が低く鳴る。

都市の、いつもの音。

「何も聞こえない」

「さっき止まった」

ミラの手が固まった。

「何が?」

「都市」

「いつ?」

「灯りが消えたとき」

「あなたも見た?」

イアンは頷いた。

「一回だけ、ぱっと消えた」

「何秒?」

「分からない。短かった」

「その後は?」

イアンは壁を見た。

「叩いた」

「誰が?」

「分からない」

ミラはベッドの下に手を差し込み、壁の振動を探った。

何もない。

「換気装置の音よ」

「換気装置はずっと同じ音するよ」

「機械だって時々違う音を出す」

「あれは機械じゃなかった」

「どうして分かるの?」

イアンは少し考えた。

「返事を待ってる音だった」

ミラは手を引いた。

「一晩中寝てないでしょ」

「少し寝た」

「食べて学校へ行きなさい」

「今日は授業ないよ」

「どうして?」

「検査に来いって」

ミラはイアンを見た。

「何の検査?」

「機能の予備検査」

「それは来月でしょ」

「変わったって」

「誰が言ったの?」

「学校端末に来た」

ミラは壁端末を開いた。

保護者通知には何もない。

「私には来てない」

「子どもにだけ来る検査もあるって」

「誰がそう言ったの?」

イアンは答えなかった。

ミラは左腕を取った。

肘の内側に、小さな赤い点。

採血痕だった。

「いつ検査を受けたの?」

「先週」

「先週のいつ?」

「母さんが夜勤だったとき」

「どこで?」

「生命合成区画」

ミラは手に力を入れ、すぐ緩めた。

「なぜ言わなかったの?」

「母さん、怒ると思ったから」

「怒って当然のことよ」

「僕に?」

「違う」

即答したが、イアンはもう腕を身体側へ引いていた。

ミラは呼吸を整えた。

「何をされた?」

「血を取られて、耳に音を流されて、頭に光を当てられた」

「痛いことは?」

「なかった」

「誰が検査した?」

「人もいた。機械も」

「名前は覚えてる?」

「サラ」

「姓は?」

「知らない」

「ほかには?」

「別の子たち」

「何人?」

「六人」

「みんなこの都市の子?」

イアンは首を振った。

「喋り方が違う子もいた」

ミラは端末から生命合成区画の保護者照会網へ接続した。

当該機能は保護者照会の対象ではありません。

もう一度。

当該機能は保護者照会の対象ではありません。

三度目には、アクセスそのものが遮断された。

「母さん」

「ちょっと待って」

「お腹すいた」

ミラは端末から手を離した。

イアンは疲れていた。目の下は暗く、唇も乾いている。数日前からこんな顔をしていたのかもしれない。

自分が夜勤と緊急出動を繰り返すあいだ、この子は一人で検査を受け、一人で帰ってきたのだ。

ミラは配給ペーストを加熱器へ入れた。

温まるあいだ、イアンは食卓に座って壁を見ていた。

「まだ聞こえる?」

「今は聞こえない」

「また聞こえたら、すぐ言って」

「母さんに?」

「私以外の誰に言うの?」

「検査した人たちも聞いたよ」

「何を?」

「壁から音が聞こえるかって」

加熱器が完了音を鳴らした。

ミラは皿を取り損ね、手を焼いた。

熱い皿が床に落ち、灰色のペーストが広がる。

イアンが立ち上がった。

「母さん?」

ミラは床を見なかった。

「聞こえるって答えた?」

「最初は、聞こえないって言った」

「どうして?」

「変な子って言われると思ったから」

「その後は?」

「サラが、嘘をついたらもう一度検査しなきゃいけないって」

「それで言ったの?」

イアンは頷いた。

ミラは床のペーストを素手で拾い、廃棄口へ入れた。

指先が震えていた。

「今日の検査には行かないで」

「行かなかったら学校に行けないって」

「行かなくていい」

「機能の割当が遅れるかもしれないって」

「遅れていい」

「機能がなかったら配給ももらえないよ」

「私のを分ける」

「母さんが死ぬまで?」

ミラはイアンを見た。

反抗しているのではない。

本当に知りたいという顔だった。

第7都市の子どもたちは、機能のない人間がどう生きるのか見たことがない。

機能を果たせなくなった老人や病人は、再配属されるか医療区画へ送られる。

“機能のない人生”という言葉は、都市の外を説明するときにしか使われない。

死と、それほど違わない状態。

「機能は与えられる」

ミラは言った。

「でもその前に、なぜあなたが検査されたのか私たちが調べる」

「コンティニュアムが決めるんでしょ?」

「コンティニュアムが決めるからって、あなたが何も知らなくていいって意味じゃない」

「ほかの人はみんな知らないよ」

ミラは答えられなかった。

壁端末が通知音を鳴らした。

初めて聞く音だった。

一般行政通知でもない。

業務呼出でもない。

配給変更でもない。

低く短い三つの音が、一定の間隔で繰り返される。

イアンが壁から振り向いた。

「その音」

「何?」

「壁の中からしてた音」

端末画面が黒くなった。

やがて、白い文字が現れる。

保護者:ミラ・ハン

対象:イアン・ハン

早期機能割当が完了しました。

ミラは画面に触れた。

機能割当は十二歳で行われる。イアンはまだ十一歳だ。早期割当そのものは存在するが、都市基盤の緊急人材や遺伝的再生産対象など、特別な場合にしか適用されない。

詳細を開く。

対象者:イアン・ハン

年齢:11歳4か月

機能適合性:未分類

機能コード:0

機能名はなかった。

保守技術員でもない。

教育担当でもない。

生命生産担当でもない。

数字が一つだけ。

その下に、新たな文章がゆっくり現れた。

転換手続予定:72時間後。

対象者の移動は制限されます。

保護者の同意は必要ありません。

ミラは最後の一行を読んだ。

もう一度読んだ。

待っていれば別の意味に変わるかのように、画面を見つめた。

イアンが隣へ来た。

「0って何?」

「たぶんエラー」

「エラーなら、もう一回見たら別の数字になるんじゃない?」

「確認する」

ミラは保護者異議申立を押した。

反応しない。

機能割当担当官を呼び出す。

当該割当は人間行政官の審査対象ではありません。

手の委員会へ接続する。

緊急統制案件ではありません。

生命合成区画へ再度連絡した。

今度は一行だけ返ってきた。

対象はすでに評価済みです。

「母さん」

イアンが画面の下を指さした。

数字が現れていた。

71:59:43。

71:59:42。

71:59:41。

カウントダウンが始まった。

ミラは画面を消そうとした。

消えない。

電源を切ろうとすると、端末は壁内部の独立電源へ切り替わった。

作業鞄から工具を取り出し、画面の下へ差し込む。

イアンが訊いた。

「壊すの?」

「少し消しておくだけ」

「そしたら時間も止まる?」

ミラの手が止まった。

イアンは数字を見つめていた。

「母さん」

「うん」

「0って、何もないってこと?」

「普通はね」

「でも数えるときは、0から始まるよね」

ミラは息子の顔を見た。

イアンは怖がっていた。

けれど泣いてはいない。

泣くべきなのかさえ、まだ決めていないような顔だった。

壁の内側から低い振動が響いた。

ゴン。

浄化室で都市の灯りが消えた、あの瞬間。

ミラが聞いたのと同じ音。

イアンが囁いた。

「また、返事を待ってる」

カウントダウンは止まらなかった。

71:58:59。

71:58:58。

71:58:57。

ミラは画面の“0”を見つめた。

それが欠陥なのか。

空白なのか。

始まりなのか。

まだ分からない。

ただ、一つだけ確かなことがあった。

七十二時間後、誰かが息子を連れに来る。

そしてミラは、それまで待つつもりなどなかった。