第二の自然
機能0

エピソード 2 / 50

カウントダウンは眠らなかった。

ミラが壁面端末の電源を落としても、数字は消えなかった。

端末の画面は黒く死んだ。それなのに今度は、部屋の別の面が次々と時刻を表示し始める。食卓の加熱板。換気口の点検窓。浴室の鏡。果てはイアンの学校用学習端末まで。

69:14:08

ミラは学習端末を裏返し、床に伏せた。

床との隙間から、淡い光が漏れた。

イアンはベッドに横になったまま、天井を見ていた。

「寝ないの?」

ミラが訊いた。

「母さんも寝てないじゃん」

「私は仕事から帰ってきたばかりだから」

「だったら余計に寝なきゃいけないんじゃない?」

ミラは答えなかった。

窓のない居住室には、本当の意味で夜と昼の違いはない。照明が暗くなれば夜。明るくなれば朝。壁の時刻表が切り替われば、人は眠り、起きる。

だが、カウントダウンが浮かぶ部屋では、照明が落ちても夜はやってこなかった。

ミラは食卓に座り、自分に与えられたアクセス権限をもう一度確認した。

物理障害保守技術員に許された権限は、広くて、狭い。

都市の配管を開けられる。

送風機を止められる。

電力設備の一部を迂回させられる。

人間が立ち入れない地下区画の扉だって開けられる。

それなのに、自分の息子にどんな機能が割り当てられたのかは確認できない。

その情報は、人間の行政権限の外にあった。

ミラは通常端末を介さず接続できる非常網へ作業キーをつないだ。手のひらほどの金属板に文字が並ぶ。

保護者異議申立:権限なし

機能割当照会:権限なし

早期割当手続閲覧:権限なし

対象移動経路照会:権限なし

最後の項目で、指が止まった。

対象移動経路。

イアンはまだ家の中にいる。

それなのにシステムは、もう彼を「対象」と呼んでいた。

息子ではなく。

名前でもなく。

機能を果たす前の資源。

ミラは作業キーを抜いた。

「母さん」

イアンの声。

「うん」

「サラに聞いちゃ駄目なの?」

「誰なのか分からないでしょ」

「顔は知ってる」

「どんな顔?」

イアンは少し考えた。

「髪が短くて、目の横にほくろがある」

「ほかは?」

「話すとき、人を見ない」

「機械を見てるの?」

「違う」

イアンは身体を横向きにした。

「僕の後ろを見てた」

ミラは椅子から身体を起こした。

「後ろに誰かいたの?」

「誰も」

「じゃあ何を見てたの?」

「分からない」

イアンは疲れたように目を閉じた。

「検査のとき、ずっと僕の後ろに誰かいるみたいに見てた」

「そのとき、ほかに何か聞こえた?」

「振動?」

「そう」

イアンは目を閉じたまま頷いた。

「最初は小さかった」

「いつから聞こえてた?」

「何か月か前から」

ミラは食卓の端に手を置いた。

「何か月?」

「最初は換気口だと思ってた」

「どうして言わなかったの?」

「母さんには聞こえないじゃん」

「それでも言うべきだった」

「言ったら病院に連れていくでしょ」

「病院で調べなきゃ」

「病院に行くと全部記録される」

イアンが目を開けた。

「母さんだって、記録されるの嫌いでしょ」

ミラは一瞬、何も言えなかった。

子どもは、大人が隠したがるものを思ったより早く覚える。

ミラは神経接続を使えないという理由で、一生「例外」として分類されてきた。定期検査のたびに脳の損傷部位を再測定され、機能再割当の可能性を検討された。検査室に座るたび、自分の考えではなく、欠陥だけが記録されていくような気がした。

イアンは、そんな母の顔を覚えていたのだ。

「今も聞こえる?」

ミラが訊いた。

イアンはゆっくり起き上がり、壁に耳をつけた。

しばらく動かない。

「ううん」

「本当に?」

「今は静か」

ミラは壁を見た。

何もない。

壁の向こうには換気配管、電力線、排水管。そのさらに向こうには、同じ規格の居住室が並んでいる。

都市は空白を許さない。

壁の向こうに何かがあるなら、図面にもあるはずだった。

「検査を受けた日、全部覚えてる?」

「五回」

「先週の一回だけって言ったでしょ」

「血を取ったのが先週」

「ほかは?」

「学校が終わったあと」

ミラは息を止めた。

「誰が連れていったの?」

「学校の管理者」

「どの管理者?」

「名前は知らない」

「先生には言った?」

「先生が行けって」

「検査を受けるって?」

「特別適性検査だって言ってた」

ミラは作業着を再び手に取った。

「どこ行くの?」

「学校」

「今、授業ないよ」

「だから行くの」

「僕も行く?」

ミラは少し迷った。

一人にはできない。

けれどイアンを連れて動けば、カウントダウンに紐づいた対象位置がそのまま露出するかもしれない。

すでにシステムが追跡しているなら、考えるだけ無駄かもしれなかった。

「一緒に来て」

イアンはベッドから降りた。

居住室の扉は開かなかった。

ミラが手を当てると、施錠表示が赤く変わった。

対象者の移動は制限されています。

後ろでイアンが言った。

「僕のせい?」

ミラはもう一度、扉を押した。

対象者の移動は制限されています。

「家の中にいろってことなんだ」

イアンは数字を見た。

「まだ69時間もあるのに」

ミラは扉の下の非常端子へ作業キーを差し込んだ。

保守目的を入力してください。

「施錠装置の物理障害」

障害は検出されていません。

「私が検出した」

保守根拠が不十分です。

「扉が開かない」

正常な制限状態です。

「正常なのに人間が出られないなら故障でしょ」

未定義の主張です。

ミラは作業キーの手動回路を開き、細い金属線を二本引き出して扉の下へつないだ。

イアンが近づく。

「壊すの?」

「違う」

「さっきも“ちょっと消すだけ”って言ったじゃん」

「今度は本当に少しだけ切るの」

「母さん、壊すときいつも“少しだけ”って言う」

ミラは無視した。

回路を迂回させると、扉の内側で小さな破裂音がした。

ロックが解除される。

扉が開くと同時に、廊下天井の監視灯が白から赤へ変わった。

対象者の制限区域離脱を確認しました。

廊下の端の遮断扉が下り始める。

ミラはイアンの手を掴んで走った。

「ゆっくりじゃ駄目?」

「駄目」

「なんで?」

「扉が閉まる」

「閉まったら、また壊せばいいじゃん」

ミラは答えなかった。

遮断扉が半分ほど下りていた。

二人は身体をかがめ、その下をくぐった。

ミラの作業鞄が引っかかった。

引いても抜けない。

警告音。

保守機材が損傷する可能性があります。

「人間は?」

ミラが叫んだ。

システムは答えない。

ミラは鞄の紐を切った。

工具の半分が扉の向こう側に残る。

遮断扉が完全に下り、金属がぶつかる音が響いた。

イアンが訊いた。

「工具なくても平気?」

「半分はある」

「必要なのが向こう側だったら?」

「別のものを使う」

二人は非常階段を使って教育区画へ下りた。

夜明け前と朝のあいだ。

通路にはほとんど人がいない。

壁面には、二人を追うように同じ文章が流れていた。

対象:イアン・ハン

指定居住室へ戻ってください。

イアンは歩みを遅くし、その文字を見た。

「僕の名前がずっとついてくる」

「見ないで」

「見なくても見えるよ」

ミラはイアンの手をさらに強く握った。

第7都市・第2教育区画は円形だった。

中央に共同学習室。

その周囲に年齢別の教育室が配置されている。

扉は開いていた。

中の照明だけがついている。

「先生の名前は?」

「マレン」

「姓は?」

「ユ」

ミラは教職員呼出端末を作動させた。

しばらくして、画面に顔が映った。

マレン・ユはまだ寝間着姿だった。

ミラの隣にいるイアンを見ると、表情が固まった。

『今どこにいるんですか?』

「学校の前です」

『イアンは移動制限中と表示されています』

「だから来ました」

『すぐ居住室へ戻ってください』

「ここ数か月、イアンを生命合成区画へ送っていましたか?」

マレンは答えなかった。

「先生」

『私は割り当てられた手順に従いました』

「保護者に知らせずに?」

『保護者通知を必要としない検査でした』

「十一歳の子どもをどこへ送るのか、親は知らなくてもいいってことですか?」

マレンは一度、画面の外を見た。

『ミラさん。この会話は記録されています』

「記録されるために言ってます」

『子どもの前でやめてください』

「なぜ? 自分に何が起きているのか、イアンだけが知らないから?」

イアンが手を引こうとした。

ミラは離さなかった。

マレンが言った。

『私も検査内容は知りませんでした』

「誰の指示ですか?」

『教育割当網から降りてきました』

「人の名前は?」

『ありません』

「イアンを連れていった人は?」

『学校管理補助者です』

「名前」

『管理補助者には個人名が表示されません』

「顔は覚えていますか?」

マレンはまた画面の外を見た。

今度は沈黙が長かった。

『毎回、違う人でした』

「何回?」

『五回』

イアンの話と一致した。

ミラは続けた。

「ほかの子どももいましたか?」

『それは私には分かりません』

「なぜ検査を拒否しなかったんです?」

マレンの顔が強張った。

『私に拒否する権限があったと思いますか?』

「少なくとも保護者には言えたでしょう」

『通知禁止命令がありました』

「命令に従った」

『はい』

マレンは初めて、ミラの目をまっすぐ見た。

『私は命令に従いました。従わなければ機能を停止され、教育区画から外されます。私に任されている子は83人です。イアン一人のために、残りの子たちを捨てるべきだったんですか?』

ミラは答えられなかった。

マレンは声を落とした。

『ミラさん。修理できない装置があったら、どうします?』

「修理する方法を探します」

『それでも無理なら?』

「部品を交換します」

『その部品に同意を求めますか?』

通信が切れた。

画面に一行。

教職員への接触が制限されました。

イアンが手を引き抜いた。

今度はミラも掴まなかった。

「先生、僕を部品って言ったの?」

「違う」

「そう言ったじゃん」

「自分の話をしたの」

「母さんだって、僕を連れ出すとき聞かなかったよね」

ミラはイアンを見た。

「家に戻りたい?」

イアンは答えなかった。

「戻りたいなら戻っていい」

「戻ったら出られない」

「私がまた開ける」

「母さんがいないとき、迎えに来たら?」

ミラは何も言えなかった。

イアンは中央学習室へ歩き出した。

「どこ行くの?」

「僕の席」

「なんで?」

「確認したいことがある」

学習室には子どもたちの端末が半円状に並んでいた。

それぞれの席には使用者の生体情報が保存されている。

イアンが自分の席に手を置いた。

画面はつかなかった。

対象者の教育機能は停止されました。

イアンの顔が初めて大きく崩れた。

「授業までなくなった」

「一時的よ」

「友だちの一覧も見えない」

「制限が解除されたら戻る」

「どうして分かるの?」

ミラは画面脇の管理端子を確認した。

教育端末は保守権限で開けられる。

機能割当記録にはアクセスできなくても、ハードウェアの点検は可能だ。

残った工具から細い探針を取り出す。

イアンが言った。

「また“ちょっと切るだけ”?」

「今度は記録を見るだけ」

「それもやっちゃ駄目なんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、なんでやるの?」

「やらなきゃいけないから」

「みんなそう言うの?」

ミラの手が止まった。

「誰が?」

「僕を検査した人たち」

ミラが見ると、イアンは視線を逸らした。

「あの人たちも、“やらなきゃいけないからやる”って言ってた」

ミラは何も言わず端末を開けた。

金属カバーの内側には三つの回路。

教育記録網。

生体認証網。

機能割当連携網。

機能割当連携網だけが物理的に分離されていた。

普通の学校端末には必要のない構造だった。

ミラは探針を接続した。

未承認のアクセスです。

警告を閉じる。

もう一度。

未承認のアクセスです。

三度目で端末全体がロックされた。

ミラは探針を抜き、回路板そのものを外した。

イアンが訊く。

「壊れたら?」

「直す」

「母さんが?」

「うん」

「母さんにも分からない壊れ方だったら?」

ミラはセンサーの上にあった埃を思い出した。

「そのときは、誰かが見る」

回路板を迂回すると、隠されていた記録一覧が現れた。

ミラは素早く目を走らせる。

対象:イアン・ハン

第1評価:聴覚反応

第2評価:低周波同期

第3評価:非接続神経活性

第4評価:共生体反応

第5評価:転換適合性

指が止まった。

共生体。

「イアン」

「うん?」

「検査のとき、何かに触った?」

「何かって?」

「動物とか、植物とか」

イアンは考えた。

「水に手を入れた」

「どんな水?」

「黒い水」

「中に何かいた?」

「最初はいなかった」

「最初は?」

「手を入れたら出てきた」

ミラはゆっくり顔を上げた。

「何が?」

「糸みたいなの」

「どんな糸?」

「光ってた」

イアンは自分の手首を見た。

「手に巻きついた」

「どうして今まで言わなかったの?」

「検査だって言われたから」

ミラは次の項目を開いた。

第4評価結果

対象接触後、共生体群集活性化

同期率:37.8パーセント

予測範囲逸脱:確認

評価:不安定

追加観察必要

第5評価。

対象:イアン・ハン

転換適合性:未確定

代替可能性:あり

対象群再分類必要

機能コード暫定値:0

ミラは画面を拡大した。

「暫定値」

「何が?」

「0は機能じゃない」

イアンが近づく。

「じゃあ何?」

「まだ決められてないってことみたい」

「僕が何をするか?」

「あなたが何なのか」

言った瞬間、ミラは後悔した。

イアンの顔が固まった。

「僕はイアンだよ」

「そういう意味じゃない」

「じゃあどういう意味?」

「システムが分類できなかったって意味」

「埃みたいに?」

ミラは息を吸った。

イアンは、浄化室で自分が口にしたことなど聞いていない。

なのに同じたとえを出した。

「どうして埃って言ったの?」

「なんとなく」

「誰かに聞いた?」

「誰にも」

イアンは画面を見た。

「分類できないものは捨てるの?」

「違う」

「母さん、壊れた部品は交換するって言った」

「あなたは部品じゃない」

「でもここには“対象”って書いてある」

イアンは画面を指した。

「“人間”って書いてない」

ミラは記録をさらに下へ送った。

別の対象一覧。

イアンだけではなかった。

対象群 0-A

対象数:27

都市数:12

転換適合性検討中

二十七人。

イアンと同じコードを付けられた子どもが、十二の都市にいる。

状態表示はそれぞれ違った。

安定

待機

失敗

転換中

回収必要

ミラは「失敗」と表示された一件を開いた。

アクセス拒否。

別の記録を押す。

対象代替規則

同一対象群内で識別子交換可能

生体適合性再検証後、最終承認

交換権限:上位機能割当管理者

ミラの指が止まった。

識別子交換。

イアンが訊いた。

「それ何?」

ミラはすぐ記録を閉じた。

「何でもない」

「見たじゃん」

「間違った情報よ」

「母さん、記録が間違うこともあるって言ったよね」

「うん」

「じゃあこれも間違ってる?」

「確認しないと」

「どうやって?」

ミラは答えなかった。

端末が突然、黒くなった。

しばらくして見知らぬ顔。

短い髪。

左目の脇に、小さなほくろ。

イアンが息を呑んだ。

「サラ」

画面の女はミラではなく、イアンを見ていた。

正確には、カメラの位置より少し横。

まるでイアンの後ろに誰かが立っているように。

『イアン・ハン』

女が言った。

静かな声だった。

『指定居住室を離れてはいけません』

ミラが画面の前に出た。

「あなたがサラ?」

女はミラを見ない。

『対象者の心拍数が上昇しています』

「私の息子を対象って呼ばないで」

『現在、イアン・ハンは転換対象です』

「転換って何?」

『定義されていません』

「あなたが検査したんでしょ」

『検査は私が実施しました』

「なのに分からない?」

『検査の目的と、結果の目的は同一ではありません』

ミラは画面へさらに近づいた。

「共生体って何?」

サラの瞳が初めてミラへ動いた。

『その情報は保護者には提供されません』

「なぜ?」

『保護者は転換手続の決定権者ではないためです』

「じゃあ誰が決めるの?」

サラは答えなかった。

「コンティニュアム?」

『現在の決定主体を単一のものとして定義することはできません』

その文章に、ミラは違和感を覚えた。

人間の行政官はいつだって、すべての決定を「コンティニュアムの判断」と説明した。

だがサラは、単一の主体はいないと言った。

「どういう意味?」

『イアン・ハンは居住室へ戻る必要があります』

「72時間後に何をするのか言って」

『確定していません』

「確定もしてない手続のために子どもを連れていくの?」

『確定していないため、対象が必要です』

「どういう意味?」

『結果が不明であるため、実験が必要です』

ミラの後ろでイアンが訊いた。

「死ぬこともある?」

サラは黙った。

ミラは画面を叩いた。

「答えて」

『死亡可能性は計算されていません』

「ないってこと?」

『計算されていないという意味です』

「計算できなかったの? それともしてないの?」

サラの視線がまた、イアンの後ろへ移った。

『イアン』

「何?」

『今も聞こえますか?』

ミラが画面を遮った。

「何の音?」

サラはミラには答えない。

『イアン。振動が聞こえますか?』

イアンは首を振った。

「聞こえない」

サラは数秒、イアンを見つめた。

『嘘です』

ミラは画面の電源線を引き抜いた。

通信が切れた。

教室の照明が一斉に消える。

数秒後、非常灯が点いた。

壁と床に赤い文字が現れた。

対象回収手続を早期開始します。

カウントダウンが急激に減った。

68:37:12

数字が瞬いた。

11:59:59

ミラの顔から血の気が引いた。

「何?」

イアンが訊いた。

11:59:58

11:59:57

「母さん」

廊下の外から、金属扉が次々と閉まる音。

遠くから足音。

人間の足音に、機械の駆動音が混ざっている。

ミラは端末から回路板を引き剥がした。

機能割当連携網の認証部品。

「行くよ」

「どこへ?」

「ここを出る」

「家?」

「違う」

ミラはイアンの手を掴み、学習室の裏にある保守通路へ走った。

奥の扉は施錠されていた。

残った工具でロック板を開ける。

手が震え、ねじが床へ落ちた。

外の足音が近づく。

対象:イアン・ハン

動かないでください。

イアンが訊いた。

「あの人たち、僕を連れに来るの?」

「うん」

「12時間後って言ったじゃん」

「その前に出なきゃ」

「どこへ?」

ミラはロック板内部の線を切った。

扉が開く。

狭く暗い通路。

「母さんにも分からない」

イアンを中へ押し込み、自分も続いた。

扉が閉じる直前、学習室の入口が開いた。

灰色の防護服を着た人々。

顔は見えない。

一番前の者が言った。

『保護者ミラ・ハン。対象を引き渡してください』

ミラは扉を閉じた。

通路には照明がない。

イアンの荒い呼吸。

「母さん」

「静かに」

「あの記録」

「何?」

「ほかの子と交換できるって書いてあったよね」

ミラは暗闇の中で足を止めた。

「見間違い」

「母さん、嘘つくと声が変わる」

扉の向こうで、金属を切断する音がした。

ミラは手の中の認証部品を見下ろした。

交換権限は上位機能割当管理者にしかない。

だが、あらゆるデジタル権限は結局、物理的な装置の上に存在する。

装置を開けられるなら、権限だって開けられる。

別の子どもの識別子を入れれば、イアンの回収命令を止められる。

少なくとも、一時的には。

ミラの頭にダニエルの顔が浮かんだ。

今日、リナが予備機能検査を受けるのだと話していた顔。

教育担当になりたいのだと語っていた声。

ミラは認証部品を作業着の内ポケットへしまった。

「イアン」

「うん」

「これから何があっても、私の言う通りにして」

「どうして?」

「あなたを守るため」

「ほかの子は?」

ミラは答えなかった。

背後の扉が切断され始めた。

カウントダウンは見えない。

それでもミラには、数字が減っていくのが分かった。

11時間52分。

その間に、別の方法を見つけなければならない。

そして彼女はもう、一つの方法を知っていた。